大谷焼の起源と沿革

寝ろくろ

昔、安永9年(1780年)文右衛門という九州生まれの焼物職人が夫婦親子5人連れで大谷村山田の里にきて、初めてロクロ細工を披露し、時の庄屋森是助が、素焼き窯を築いて、焼きたてたことに始まります。焼きものの噂は、時の13代藩主蜂須賀治昭公のお耳にも入り、大谷村に藩営の窯が築かれました。阿波に初めて染付磁器が焼成されたのですが、此の窯は惜しくも天明3年廃止となります。其の後藩窯の創設にも尽力した賀屋文五郎が藍商の旅先にて、知り合った陶工忠蔵を連れ帰り、弟納田平次兵衛をして瓶造りの陶技を修得せしめさせ、さらに納田平次兵衛は苦心の末、天明4年民窯を築くことになります。以後、大谷焼は時代の流れとともに幾多の変遷をたどり現在、河井寛次郎先生から日本一と推奨された大物陶器・美術工芸品・日用雑器などその製品の素朴さと雄大さは県内外の人達から称賛されております。

2003年9月、国(経済産業省)の伝統的工芸品指定を受け新たな歴史を歩み始めました。